奨学生の声

留学を振り返って

<strong>菊地 敏之</strong><br /> 留学先大学:Fairfield University(コネチカット州)<br /> 1963年卒業<br /> 専攻:経済学、フランス語<br /> 出身高校:セントジョセフ高校(横浜)<br /> 職業:三菱アルミニウム(株)、三菱金属(株)〔現三菱マテリアル(株)〕、エムエートレーディング(株)、エムエートレーデイング退社後コンサルタント業Toshi & Associatesを立ち上げタイの企業の三菱アルミニウム(株)向け日用品販売の支援。<br /> 菊地 敏之
留学先大学:Fairfield University(コネチカット州)
1963年卒業
専攻:経済学、フランス語
出身高校:セントジョセフ高校(横浜)
職業:三菱アルミニウム(株)、三菱金属(株)〔現三菱マテリアル(株)〕、エムエートレーディング(株)、エムエートレーデイング退社後コンサルタント業Toshi & Associatesを立ち上げタイの企業の三菱アルミニウム(株)向け日用品販売の支援。

私が留学を考えたころ、日本の状況は未だ復興途上で一流企業の初任給は2万円前後でとてもアメリカ留学を考える状況にはなかった。又 為替管理も非常に厳重で大学留学の為の外貨購入はほぼ不可能であった。(高校生の留学はAFS, 大学院はフルブライト等があった。大学は全くなかった。)当時、基金には指定校が60校あり、指定校には募集要項が毎年送られていた。NETは存在しなかったので指定校以外の高校から応募するには、何等かの方法で募集を知らない限り応募できなかった。私はたまたま新聞記事で募集を知り応募できた。

選抜方法は先ず、高校の成績と校長先生の推薦状を選考委員会が評価し、一次選考の合否が決まった。合格した学生は後日一堂に会し、Essayを書く試験を受験した。(私の場合は東京駅近くのビルの2階の大きな会議室が会場だったと記憶している。集まった学生は10名程度だった。その年はたまたま女子の募集もあり、受験生は男女合わせ20名程度だった。Essayの題は「なぜ留学を希望するか」的な題だったように記憶している。(グルー基金は男子のみ募集し、4年に一度のバンクロフト基金が女子ではなかったのかと思う。)

Essayの評価の結果、半数程度が二次試験合格となり、後日、面接試験を受けた。試験会場は丸ビル3階のグルー基金の事務所だったと記憶している。試験官は岡田理事長の他東京大学の教授、外交政治評論家の細野軍治先生、アメリカ大使館の方、と確か日本大学の女性の先生だった。私は中国への支援は未だ早すぎる的なことを書いたので、面接では細野先生から色々質問を受け、大汗を掻いた記憶がある。試験が終わり、ホットして、丸ビルを出て、バス乗り場に行く途中で危なくタクシーに跳ねられそうになった事を今でも記憶している。

面接試験の結果、合格者1名、補欠一名が決まった。後日、2名で確か築地の聖路加病院で健康診断を受けた。結核の検査が主体だったように記憶している。私には特に健康上の問題なく、合格と決まった。(問題あれば補欠の方を入れ替わることになっていた。)当時基金は横浜港から米国も大学迄の往復の運賃、月々のおこずかいとして$40/月、夏休みは$120/月、教科書代、本代として$200/学期、およびその他の経費支給がされた。例えば、甘いものが好きな私は、恥ずかしながら虫歯となり、治療代10本分$200ドルを負担してもらった。合格決定後、私はカトリック信者なので、カトリックの大学、かつ兄がNew YorkのFordham大学に留学していたので、New York近くの大学を希望した。事務局は驚かれたと思うが、上智大学に相談された結果、Fairfield 大学を選んでくれた。(Fairfield 大学はNew Yorkから汽車で一時間、Long Island Soundに面したRolling Hills of New Englandの真っただ中にある敷地20万坪を有する、新しく出来た上智大の姉妹校だった。)
                         Fairfield大ではBS, BA,及びBSSのCurriculumが提供されていた。但し、BS, BAに入学するにはラテン語又はギリシャ語が必須で私は高校時代それらを取っていなかったので、BSSに入学した。Fairfield大では新入生にMentorが付き、私の場合はつい最近まで上智大学で英文学を教えておられたNickerson助教授だった。(イエゼス会の神父)Nickerson助教授はセントジョセフの事も知っておられ、高校で相当フランス語を勉強しいただろうから、近隣の先生方がMasterを取得するために勉学する夕方のコースに入るように勧められた。又 数学は数学Majorの学生と一緒のコースに入るようにアドバイスされた。フランス語は授業、質疑応答、ペーパー、試験全てがフランス語だけで、Majorの勉強が出来なくなるぐらい大変時間を取られた。そのおかげか、卒業式でFirst Runner Up to the Curriculum Award with Excellency in Frenchと案内されうれしくおもった。卒業式には父が参加してくれる予定だったが出発数日前に心筋梗塞を患い急に参加出来なくなったので、グルーの学生達が大変お世話になっていた、グリニッチにお住まいの新井さんご夫妻をご招待した。式後 新井さんご夫妻から“菊地さんはそんなにお勉強が出来たの?”と言われ、”私もグルー奨学生ですから“と胸をはったのをこの記事を書きながら懐かしく思い出した。

卒業後はUniversity Of California, Berkley の博士課程(Masterの論文提出なしでPHDコース進めるコース)に入学が決まっていた。大学を卒業し、一時 帰国した際 親戚の照会で大蔵省の幹部の方の面接を受けた。その際、PHDを取得することを条件に大蔵省より世界銀行にJunior Economistとして推薦をしてあげるとのお話があった。又、大蔵省の方からは、世銀に専務理事として席を置いておられる方と密に連絡を取り、選考科目を選ぶようにとの具体的なご指示もあった。9月下旬横浜より再度貨物船に乗り、西海岸を目指した。もう直ぐサンフランシスコと言うところで、緊急電報を受信し、父が再度心筋梗塞で倒れたとの連絡があり、サンフランシスコ到後、三菱商事の事務所に直行し、病状を確認した所、危篤と分かり、Berkleyに事情を説明し、入学を一年遅らせることにし、帰国した。

しかし12月初めに父が亡くなり, Berkleyへの留学は取り止め、出来たばかりのMitsubishi Reynolds Aluminum社に入社することにした。Reynolds Aluminumは Reynolds Tobacco とは別会社でRichmond, Virginiaに本社を置く会社だった。設立間もない三菱レイノルズ社には技術担当副社長、営業のアドバイザー等数名が在籍しており、アルミ箔の営業のほか、彼らとのコミュニケーションのお手伝いをさせられた。10年近くそのような仕事をした後、三菱金属(親会社)に出向、後に転職した。オイルショックの影響を受け、三菱化成直江のアルミ地金の価格競争力が著しく衰え、地金高となり、川下のアルミ製品の価格競争力も失った為、新たに海外に地金のソースを求めることになり、昭和電工、神戸製鋼等が既に進出していたベネズエラのアルミ精錬事業に住友化学等と共に参加することになった。年数回はアメリカ経由ベネズエラの首都カラカスまで出張し、現地の株主と、日本側株主6社の会議に出席した。ベネズエラの幹部は殆ど皆アメリカの大学での卒業者だったので、アメリカの大学での経験が大いに役立った。三菱金属ではアルミ地金の購入と、立ち上がったばかりのアルミ缶事業のバックアップ、特にアルミ缶の回収と再資源化の仕事に事業に関わった。

61歳で定年を迎え退職した後は、自前のコンサルタント業を立ち上げ、今度はタイの企業の対三菱アルミ及びその子会社に対する日用品の販売のお手伝いをした。

昨年、81歳になったので、この仕事にも終止符を打ち、今は全くフリーの状態となった。私が留学した当時ジェット機は飛んでなく、皆 横横浜から貨客船でアメリカ西海岸に向かい、そこから大陸間横断鉄道でシカゴを目指した。中西部の大学に留学される方達はシカゴで下車し、それぞれの大学のある街に向かった。私は汽車を乗り換えニュヨークに向かった。ニュウヨークではFordham大学留学中の兄が迎えてくれ、後日、兄と一緒にFairfieldに初めていった。

これから留学される皆さんは「アメリカの文化に触れ、その文化を理解し、将来、日米関係に貢献する」と言うのが基金の大きな目的に一つあることを心得、大学が長期の休みに入った際、直ぐ飛行機に乗り一時帰国するのではなく、招待されたら是非一度は彼らと彼らの家族と過ごして欲しい。彼らがどのように勤労感謝祭、クリスマス及び新年、春休み(Easter)を祝っているかを体験することも大変有意義な経験と思う。これを書きながら思いだしたのだが、ある年、クリスマスの前、ルームメートの母親が一人で熱心に七面鳥に詰める生地をこねているのを熱心に見ていると、彼女は“これが私の生地なのよ“言われた。アメリカでもこのようにして各家庭の味が代々引き継がれている事を理解した。又、クリスマスシーズンになると子供向け映画が多く上演されていることにも気づいた。どうしてかなあ、と考えてみると、親たちが子供達のプレゼントを探し、買い求める間、年長者に子供を預け、短時間で用が済ませる工夫だった。買い物は特別な包装はせず、車に乗せ、帰宅後 自宅の一部屋に集め、各自その部屋が空いている時を見計らってギフトラッピングをし、ツリーの下に飾り、クリスマスの日にプレゼントの交換を楽しんだ。

嫌だったことも書くようにと依頼があったが、余りなく、あえて言うのならば、魚料理だった。Fairfield大学はカトリックの大学で、その教えに従い、四旬節(Lent)と降臨節(Advent)の期間中肉料理は提供されなかった。魚は旨くなく余り食欲をそそるものではなかった。又、食堂で給仕する婦人は私が日本人なのを知っていて、デザートがRice Puddingの時、”日本人は良く米を食べるわね、懐かしいでしょう“と言って甘いRice Pudding をDouble Portionでよそってくれたのには困った。(全ての魚料理が美味くなかったわけではなくShrimpだけは良かった。お金がある時は寮の友人たちと町のレストランにFried Shrimpを食べに行ったことをこの記事を書きながら懐かしく思いだした。)

将来の日米関係に大きな役割を担う皆さんは是非、色々な機会をとらえ、アメリカの習慣、考え方等に接し、アメリカ人を理解できるよう努力してください。東部、中西部、南部等場所、地域によって、移民してきた国が違い、理由が違い、考え方も違います。勿論、持ち込んだ習慣も違います。従って、出来るだけ多く、幅広く友人を作り、色々なバックグラウンドを理解出来るよう努めて下さい。

卒業後の進路についてのアドバイスとありますが、見ていると、卒業生は欧米系の金融機関に就職される方が多いようですだが、是非日本のメーカー、商社等も考慮に入れトライしてみて下さい。彼らも昔と違い、指定校に縛られることなく、幅広く人材を求めているようです。是非頑張って下さい。

募集要項